最近、私の周りにはSNSで「いきなりステーキ」についてアップする人が多いんです。
というのも、今年の3月、私が住む街にも「いきなりステーキ」がオープンしたから。
数ヶ月経つ今でも、平日さえ行列ができてるぐらいの人気で、並ぶのを諦めたという友人もたくさんいます。ちなみに、私はまだ行けていませんが(苦笑)。
そんな「いきなりステーキ」を日本はもちろん、世界にも展開しているのが一瀬邦夫社長。
その経歴を見てみると、一瀬社長の母親の存在がありました。一体どんな親子関係だったのでしょうか。
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いきなりステーキ社長は一瀬邦夫
日本各地に100店舗を有に超える「いきなりステーキ」を展開しているのが一瀬邦夫社長です。
元々立ち食いのステーキ店でしたが、2015年から徐々に椅子席も導入し、まだまだ新店舗を続々とオープンさせ続けている注目の外食チェーンと言えますね。
こんな快進撃を続ける「いきなりステーキ」ですが、これまでにはいろんな紆余曲折があったようです。
1942年、静岡生まれの一瀬社長は高校卒業後、浅草にある洋食店「キッチンナポリ」に就職しますが、母の助言があり「山王ホテル」へと転職。
9年間、このホテルの調理場で働き、その後独立を果たしました。
独立したのは27歳の時。ちょうどこの頃、1つ年下の奥様と結婚し、二人三脚で店を切り盛りしながら、店を順調に成長させます。
機器の開発や牛肉の輸入など、時代を見ながらさまざまな工夫を重ねましたが、その途中には委託店舗での暴行事件やO157による食中毒事故などもあり、経営も危ぶまれたこともあったとか。
でも、そのようなつまづきがあったからこそ、さらに努力を重ね、会社を引っ張ってきた一瀬社長。
今では、飲食業界で注目される存在であることは間違いありませんね。
一瀬邦夫の経歴の影に母あり
一瀬邦夫社長が食の道に進んだのも、ホテルへと転職したのも、独立をしたのも、実はある人の影響を大きく受けたからです。
その人というのが、一瀬社長のお母さん。
お母さんは小唄の師匠をされていたそうですが、一瀬社長は「父親のことを知らない」と言いますから、すでに他界されていたか、もしかすると未婚の母だったのかもしれませんね。
そうやって、母一人子一人で幼い頃からを過ごし、小学生の時には病弱な母に代わって、食事の準備もしていたそうです。
そんなお母さんが、一瀬社長が高校卒業後にレストランナポリに務めると
「日本で五本の指に入るようなコックになれ」
と言ったことで、転職を決意します。
そして働き始めたのが、赤坂にある老舗の旧山王ホテル。
ここで9年務めますが、今度、お母さんは
「いつまでも人に雇われるな」
と言い放ったそうです。
そして一瀬社長は独立。
戦前、戦後の大変な時代に、女手一つで子供を育てていたわけですから、体は弱くとも大変強い女性だったのではないかと思われます。
一瀬社長自身も、常に弱い母親のことを心配しては、家路を急ぐ日々だったようですから、母と息子の結びつきはとても強固なものだったのでしょうね。
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一瀬邦夫のようになりたいなら「馬上行動」
一瀬邦夫社長がこれまでの人生の中で教訓としてきたことを、私たちは知ることができますが、私がその中でも大きくうなずいたのが「馬上行動」です。
この言葉は、一瀬さんの会社の社内報のタイトルにもなっているそうですが、意味も字のまんま。
「スピード感をもって、走りながら考える」
ということだそうです。
馬に乗って走りながら、次はどうするかを考えるということですね。
ビジネスではPDCAに沿った行動が推奨されますが、一瀬社長は、このPDCAもとにかく超速で進めることが大事だと言います。
また、従業員をとにかく大切にする姿勢は頭が下がるほど。
従業員の立場に立って考え、従業員が幸せなら社長も幸せだと言う姿勢は、小規模な会社経営ならともかく、一瀬社長の会社の規模になると、なかなかおろそかになる部分だと思います。
いくつかの不祥事があっても、社員が辞めることなく働き続けてくれたのも、きっと常日頃の一瀬社長の社員に対する態度がそうさせたのでしょう。
この姿勢があれば、会社はずっとうまく周り続けるでしょうし、何か起きてもうまく対処できると思います。
やっぱり会社も組織も「人」ありきですね。
一瀬邦夫社長の今後の活躍に期待しています。
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